笠間焼の豆知識

笠間焼とは 四面を山々に囲まれ、街の中心には日本三大稲荷のひとつ笠間稲荷を有す門前町として、また四季折々にその勇姿を変える佐白山麓には笠間城址を残す城下町として古くから栄えてまいりました。
 笠間焼は、その自然のなか、古く江戸時代安永中(1772年)に信楽焼より伝わり、その基盤を作り上げ、時の藩主牧野貞直公が振興に努め、当時の成形、釉薬、焼成とその技法が現在に受け継がれております。その技法は、実用・趣味・嗜好に応じ、笠間焼として発展してまいりました。
 今日では、花器・茶器・食器・置物・建築資材など幅広く創られ、皆様に大変親しまれております。
 

笠間焼の変遷

起源 笠間焼の起源は、久野家に伝わる江戸時代における笠間焼歴史の「笠間陶器沿革誌」によると、当時信楽の陶工長右衛門が当地に滞在しており、長右衛門から半右衛門が陶器の有望なことを知らされ又、この地に良い粘土が有る事がわかり長右衛門の指導により窯を開いた。半右衛門の跡を継いだ久野瀬兵衛益信は、さらに窯業を発展させるため信楽の地を訪ね陶工吉三郎を招請することができた。吉三郎は、よく久野家の期待に応えて働き日用雑器を焼く。これを箱田焼と称す(笠間焼の前進)。一方、笠間藩主牧野貞喜(1792~1817)は、寛政年間(1789)ごろから産業奨励の為に「お庭焼」を下屋敷の近くに開窯した。また、牧野貞直の時代(1861~1863)に生産を高めんが為、仕事の方法を後世に伝えると言う意味において「仕法窯」を藩内6ヶ所に設置し、製陶業は次第に発展した。その後の各窯元は、生産の拡大により馬にて6俵を一駄とし、石岡、小川、霞ヶ浦を経て、舟にて利根川を下り、上総、下総、江戸にまでその販路を拡大していった。また、笠間焼のもう一つの源流として宍戸焼(ししどやき)がある。天保年間(1830)山口勘兵衛が友部町宍戸で開窯し、宍戸焼として伝えられている。(府県陶器沿革陶工伝統誌~工務局~明治19年刊行)しかし、この地方の焼物は、窯を開いた村名を焼物の名称としたが、何れも近い距離にあるため、その技術、技法及び原料も全く同じ物を使用し明治になってからそれらを総合的名称、笠間焼として販売を広げていった。
 
明治 明治2年(1869)田中友三郎が仕法窯の一つであった関根窯を譲り受け生産に当たるとともに、販路を東京に求め、積極的に販路を広げた結果、それまであまり知られなかった笠間焼が、広く関東一円に知られるようになった。特に明治10年(1877)に開かれた内国勧業博覧会で、笠間焼の茶壷が1等を受賞したので笠間焼の名は一躍広まり関東一円に販路を広げ急激な発展期を迎え、明治20年代には年産15万円に達する笠間地方最大の産業に発展した。当時の主なる製品(明治24年素挽賃料及び寸法帳)は、陶類(酒壷)、蕎麦陶(そば徳利)、瓶類(かめ類)、茶壷、摺鉢、水鉢、植木鉢、皿類、その他唐人鉢(おもと鉢)、土瓶、火鉢、花瓶、行平、土鍋、湯たんぽ(かまぼこ型)、便器、油壷類、油皿(燈皿)等、厨房用粗陶器全般に及んでいる。
 釉薬は、柿赤、黒、糠白が主で、簡単な黒釉、緑釉の流しが施されている。又、飴、並白等の釉も焼かれた。生産額の推移より笠間焼を見ると、鉄道が明治21年に開通すると同時に、販路がより拡大し、明治25年(1892)には生産額15万円となり、当時の米価より換算すると現在価格で約13億円となり、笠間焼史上最高の生産額である。その後明治40年(1907)には年間15万円と(10万俵)になり現在価格換算約6億円に激減した、この原因の主なるものはこの頃より各地に鉄道が開通し関東の市場にも愛知、岐阜等の製品が笠間焼の大きな競争相手として登場したことである。その後、笠間焼は関東市場で愛知、岐阜物との激しい競争に入るとともに、硝子、金属製品の進出にもさらされた。明治30年代には鉄道の発達により、販路は拡大し関東、東北各県等、1都16県に及んで、日本有数の、かめ、すり鉢の産地として認められるようになったと云う。
 
大正 大正8年(1919)頃より、先進陶業地は石膏型による型成形が次第に普及したが、石膏型成形には、あまりにも収縮率が多くて、量産には不適な粘土である笠間焼は、依然ロクロによる成形に頼らざるを得なかったため生産性の格差を生じ、また粘土精製の技法や混合の技術が当時は粗雑なため、笠間焼の弱点であった水の浸透を止める技術に欠け、主製品の一つであった湯たんぽ、酒壷、そば徳利等が次第に姿を消した。大正15年(1926)の年産額は23万5千円となり米価換算した現在価格で約3億7千万円で、最盛期の3分の1に激減した。
 
昭和 昭和10年(1935)組合は笠間焼坏土の改善を図るため共同製土場を設け、県北常磐炭層中に産する蛙目粘土を配合し、笠間粘土の品質改善を図ったため、わずかながら品質は向上したが満州事変、日中戦争と我が国は次第に戦時経済に移行し、昭和15年(1940)笠間焼にも価格統制令がしかれ平和産業である笠間焼は、陶工の徴用等で次第に苦境に陥った。
 
 
現在…製品の転換
 江戸安永年間に窯煙をあげた笠間焼は、百数十年の間厨房用粗陶器類を焼き続けてきた。しかし、戦後人々の生活様式が変わり、またプラスチック製品等が出回るにつれ笠間焼きの需要は減り、企業は今まで経験したことのない危機に直面した、そのため関係者の熱い希望と努力により昭和23年に県立窯業補導所、そして昭和25年、茨城窯業指導所がこの地に設けられた。発足当事は設備も無く、人員も少なく、試行錯誤を繰り返しながら笠間焼の方向を模索していたが粘土の性質が明らかになるにつれ、これを改良し現在のような民芸陶器を製造することになったわけである。しかし、製品を変えるには技術的問題ばかりでなく販路についても第一歩から開拓せねばならず、この間の約10年間は笠間焼にとって大きな試練期であり、生産も史上最低に低下してしまった。
 窯業指導所は民芸陶器のために釉薬の改良、坏土の研究改善、陶工の養成等を行う一方、試作品を各種の見本市に出品し販路の開拓にも官民一体となって努めた結果、昭和35年ごろからわずかながら開け、業界も少しずつ民芸陶器の生産をはじめた。しかし、技術者の不足により生産は幾度か停滞した。
 この頃から米国より輸出の引き合いが来るようになり、マグ、コーヒーセット、サラダボール、花器、酒器等の民芸陶器類が輸出品として出荷されるようになったため、業界は輸出組合を作り、集荷、梱包、検査等を一括行い、ようやく輸出も軌道に乗り、笠間焼の品種転換は軌道に乗ることが出来た。
 また、我が国経済の復興という時代背景もあり、笠間焼にも県外から窯を設けようとする人や研修生として窯業指導所及び窯元に入るものが増え、昭和47年には笠間市が2万㎡の窯業団地(20企業)を造成した。このように笠間焼の陶房は昭和45年 30軒、昭和49年 72軒、昭和55年 100軒と増えていった。(平成11年現在約300軒 笠間近隣地域を含む)
 民芸陶器に転換した初期の製品は、笠間粘土を主原料とした素朴な食器類、茶器類、花瓶、置物等が主であり、比較的種類が少なく同一品種をある程度量産するという典型的な民芸陶器の生産形態であったが、時がたつと次第に品種も多くなり使用粘土も笠間粘土を主原料に、昔の技法を多様化させることが出来るようになった。
 このように笠間焼き製品については、各分野にわたり従来の食器、花器、置物類ばかりでなく、陶壁、陶画等のインテリア類も広く生産されている。
 製造に従事する従業員の人数は、終戦前と大差無く、その原因としては一陶房の従業員が平均2~3名のところが多く、終戦前の笠間焼の一工場に比べ著しく小人数になったためである。また一方、笠間市の歴史と芸術の町という観光との結びつきが次第に強くなり、毎年開催される陶炎祭、匠のまつり等には十数万人の人出で賑わい、現在では笠間市の観光面からも重要な産業となっている。
 
未来…伝統技法の継承
 伝統の技術、技法は色々な形で受け継がれ、現代の生活に合うデザインとして活用され、品種も時代と共に変化、手造りの利点を生かし、今後も時代の変化に柔軟に対応することが考えられる。又、釉薬原料も昔の原料は入手が困難であるが、同じような性質の原料があるため、昔と同じような色を調合することが出来、その開発、研究も盛んに行われている、また伝統的技術技法もその維持により産地の独自性を発揮しており、昔ながらの伝統を今に伝えております。
 平成4年 通商産業大臣より伝統的工芸品に指定される。


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